■概要 |
■通りの歴史 |
熊本 城見町は大正年間から通
称の地名として熊本市民の間で楽しまれてきました。 本当の町名は、「上追廻田畑町」(かみおいまわしたばたまち)。 ただ、当時の熊本中心部のメインストリートは、安巳橋(やすみはし)から始まった安巳橋通 りでした。 この通りを西に下っていくと三年坂そして城見町と続き、その先には楠の緑に包まれた天守閣の美しい姿が見えていました。その事から、この通 りを誰ともなく「城見町通り」と呼ぶようになったのです。 安巳橋通りは、舶来の商品などをウィンドーに飾って販売している店や金物屋など色々な店が建ち並び、賑わいのある通 りでした。そして安巳橋通りから続く三年坂には、キリスト教の教会があり徳富蘇峰、蘆花たちが出入りしていました。ただ、その道は、城見町で行き止まりでした。 それは、城見町からお城までの間の広大な敷地に陸軍の23連隊が横たわっていたからです。 しかし、昭和20年の熊本大空襲で下通りも安巳橋通りも城見町も大火災により昔の形を残せない状態となり、その後の復興計画で、現在の城見町や下通 りの町割りが決まってしまいました。 戦前は、城見町にはビリアード場やパチンコ店、またはメッセンジャー屋などがあり、ハイカラでした。 また、大正5年には、かの有名な種田山頭火の店、「雅楽多」が開業しています。その後、山頭火は、この熊本城見町の店を拠点に旅に出ては、作詩して何度も出入りしています。 実は、城見町は種田山頭火の心の故郷なのです。旅先での山頭火は、離婚したとは云え、妻サキノの事を思う心と同じく望郷の念は、山頭火の心を次第に感傷的にして行きます。 そんな時、山頭火は必ず「ラヂオ」のスイッチを入れて耳を澄ましました。 それは城見町には「JOGK」と云う全国7番目に開局したNHKラジオの放送局があったからです。 山頭火にとって「ラヂオ」を聞くことは、少しでも城見町の息遣いに触れたい一念からでした。 それは正に望郷でした。城見町の歴史は、安巳橋通りから続く熊本一の商店街の外れに位 置しながらも文化人たちと共にあり、「華」が咲き誇っていたのです。 現在、城見町は青葉美しい欅の群れの中にあります。 |
通りの位置 |
モドル |